ラブラブ(死語)夫婦

『読書で離婚を考えた。』円城塔+田辺青蛙

最後なので、正直に言っていいですか?
のろけじゃん!
この本、作家同士の夫婦の、ただののろけが三百ページにも渡って書いてあるだけじゃん!(笑)
『読書で離婚を考えた。』は、円城塔と田辺青蛙という作家で夫婦な二人の読書リレー本です。最終回にふさわしい本ですね。
こういう消費の仕方はご本人たちにとってはなんだかなぁという感じかもしれませんが、でもその通りだから仕方ない。少なくとも本の批評本ではない。ジャンルは夫婦萌え。
そもそも夫の方の円城塔自身が作家萌えされているような印象があるので、それがセット売りに変わっただけ、という見方もできます。

明確なエピソードを伴わなくとも、文章からなんとなく二人の関係性が見えてくるのが面白かったです。余裕を感じさせる夫と、余裕のなさを嘆く妻。でも意外と妻の方が自由にフラフラ動いているのを、夫が気にしないポーズを取りつつ、たまに目で追っている、というような感じがしたのですが、どうでしょう? いやどうでしょうって言われても、そんなの本人たちしかわからないことだろうけど(笑)
あとお互い、相手のことがちゃんと好きなんだろうなと思わせるところも面白かった。いや、それこそ本人たちにしかわからないようなあれやこれやがあるわけで、そんな単純なものではないのだろうけど。そしてそんなのは読者が勝手に文章から、もしくは文章の余白から読み取っただけに過ぎないのだけど。でも相手への愛とか興味がなければこんな連載できないと思うんですよね。お互いに、相手が指定した本を「どうしてこの本なの?」と思っていることがしつこいまでに書かれるのですが、読んでいるこっちからすれば、そんなの本人に聞く以外結論出るわけないじゃんと。そしてやっぱり出ていないわけですが、それがこの夫婦の、夫婦たる所以なのではないかと、それっぽいような、意味のないようなことを思ったりしました。

夫婦って何なんだろう。思い返してみれば、今まで考えたこともなかった問いですし、自分が誰か一人の特別なたった一人になる、というのが重たすぎて、あまり進んで考えたいと思わない問いでした。
割れ鍋に綴じ蓋とか、子はかすがいとか、かかあ天下とか、夫婦に関する故事やことわざはたくさんありますが、世間でこうだと思われている夫婦像も、実はこんなもんだと思われている夫婦像も、これだけは嫌だと思われている夫婦像も、すべて夫婦なんだろうなと思います。人の関係性の数だけ、夫婦の形があって…………と、無理やり論をこねくり回していますが、ああ、やっぱり夫婦、興味ないな(笑)
(全然関係ないんですが、今ネットで「夫婦」と検索したら、二番目に「夫婦の営み個人撮影」と出てきました。これもまた……夫婦……)

 

年の瀬ですね。
半年間やってきた読書リレーも今日で終わるかと思うと、なんだかちょっと感傷的な気持ちになっています。半年間あっという間だった。まなっちゃん、本当にありがとう!
さて。今回の課題本『読書で離婚を考えた。』をきっかけに、この読書リレーは始まったわけですが、本書と同様、当初目的としていた「相互理解」は深まったのでしょうか。
わたしは、指定された本については、どれもまなっちゃんの好きな本なんだろうなと思っていたのであまり疑問を抱くことはなかったです。そういう意味では、あまり意外性というものは感じなかったかもしれない。ああ、でも、『バーナード嬢曰く』は少し意外だったかも。あと『告白』も意外でした。意外性、感じてるな……。

意外と言えば、なぜかわたしの中ではまなっちゃんは画面の向こうの人っぽい印象があって。出会った経緯だったり、付き合い方だったりがそうさせるのではないかと思うのですが、たぶん寝ているまなっちゃんを見たら、びっくりして笑ってしまうと思います。「あ、寝るんだ」って(笑) それがいい意味で薄まったので、相互理解と言っていいんじゃないでしょうか。

まあ、離婚を考えることもなく(夫婦じゃないからね)、普通に楽しく文通ができてよかったです。結論から言うと、相互理解は少しは深まった……のかな? いやでもそもそも、この企画の根幹をぶち壊すようなことを最後にして言いますが、読んでる本で人となりがわかったりしたら、それはそれで読書という行為の敗北なんじゃないだろうか!

それでは、よいお年を。

 

最後とはいったものの

『男同士の絆 ‐イギリス文学とホモソーシャルな欲望』イヴ・K・セジウィック

雨宮まみ、いいよねぇ……
前の記事、まっちがわたし風に叫んでいたのに笑いました。わたしってあんな感じか。そして、twitterを見返して、確かにあんな感じだな〜と思いました。松たか子〜〜〜〜!!!!!!!!!みたいなね。
あの本とは関係がないのですが、わたしは雨宮まみさんの40歳記念誕生日パーティーを資生堂パーラーでやった話が大好きで、もしわたしが死んだら、ああいうふうな葬式?パーティー?をみんなにやってほしいです。もちろん誕生日パーティーもやりたいです。

そして、わたしの最後の本。
最初に謝っておく。ごめんなさい! 全く、ちゃんと、読めていません!!
夏から半年読書リレーをやってきて、あ、結構読めるじゃん、なんだかんだでいけるじゃんと思っていたのだが、それが最後になって崩れるとは思っていなかった。ごめんなさい……
とはいえ、すでに全体には目を通していて、文章が書けない状況でもないので、締め切りを伸ばしてもらうことはなく(いや本当にそれを懇願する寸前まできていた)、書きますね。

言わずと知れた超名著。ジェンダーを大学で触れたら必ず言及される有名作。でもわたし、読んだことなかったんですよね。なぜかというと、そもそも男に全然興味がないから。女性が解放されるには家父長制をぶっ潰すのが大事っていうのはわかるんだけど、男にまつわる話は勘弁してくださ〜いと、そこまでいかないけど、平たく言うならそういうメンタリティだった。大学時代はもっぱら、まきむぅ(牧村朝子)の本とか読んでましたよね。わたしもレズビアンイベントに行けばモリガみたいな妻ができるのかなぁ〜〜とかポワワンと思ったりして。
ちょっと話がずれるかもしれないのですが、人が男の話をしているとき、男に興味がないわたしは、激しい疎外感に苛まれることがある。個人として男性と仲良くなることはあるし、男に嫌なことをされて、男ってなんなの!?みたいなのは人並みにあるけど、「男」という生き物について積極的に考えたいと思ったことがおそらくないんですよね。だから、ボーイズラブめっちゃ好きなレズビアン/バイセクシャルの女性って結構知ってるんですけど、わたしはそれに当てはまらないのです。女が好きです。

とても長い、長い言い訳を書き連ねてしまった。というわけで、読むのが遅れました…… なかなか手が伸びなくて…… しかも、冒頭だけでも読むかー!と開いたら、ゲイに読んでほしいなぁー!みたいなこと書いてあって、男性同性愛者かぁ…… クゥ……と思って…… ごめんなさい。
目を通してみてびっくりしたのが、すっごく……読みやすい。平易。わたしの先輩に、フェミニズム的な観点でいくとちょっとなぁ〜というようなことを言う人がいるんだけど、その人にこの本を勧められたことがある。確かにこれは、読めちゃうよね。
ただ、悔しいかな、しんどい。女を排除して、つながりを深める、”Between Men”(男同士の絆)…………… ああむかつく。大学時代に読んでいたら、うるせーぼけ!! と思っていただろうし、ホモソーシャルはもうわかったから、女の話を出せ!!と暴れていただろう。というか、いまもそうしたい。この本を読んでいていいね!と思ったのは、序章(序章かよ)p3.「現代の女性たちについて、現段階で次のように述べるのは、ごく当然のことと考えられよう。政治的立場がいかに対立し、感情がいかに衝突しようとも、女を愛する女と、他の女の利益を促進する女−−教え、学び、育て、授乳し、女について物を書き、女のために行進し、女に投票し、女に職を斡旋する女−−は、相互に重なり合い、密接に関わり合うことをしているのだ」。女の敵は女っていうのは、家父長制に捕らえられた女の間だけだぜ!!聞いたかお前ら!!と見せびらかしたくなった(誰に?)。まあでも、ゴーストバスターズリブート版しかり、こういうテキストがきっちり読みこなされてきて、社会情勢が変わったからこそ、わたしのような人間の娯楽が増えたともいえる。
面白いのは、こういう本がもはやフェミニズムの古典になっているということですよね。同性愛者の解放が進みつつある〜みたいな記述もあって、時代ですねと思いました。おそらく今なら、結構進んできてますやん、という記述になるだろうから(日本は違うけど)。これからもこういうデカい本が出てくるだろうから、それを間違いなくキャッチできるようになりたいなー、そのためにこういう本読みのやりとりは必須だなー、勉強しなきゃなーと思いました。

最後、こんなんでいいのか……というレビューではあったけど、面白かったねぇ〜! 鳥飼茜も読みたかったけど、それはまた今度、会うときまでに読んでおくよ〜!

で、最後の指定ですね。最初から決めていました。作者被りが入っちゃうのであれですけど、別にそういうルールはないし。
相互理解を深めるという意味では、この本の最後の方、円城塔のまとめ方が上手で惚れます。そういえば、わたしが円城塔を好きなのは、男臭くないからかもしれない。中にもそれを妻に言及されています。こういう結婚生活ならやりたいかもしれない。

よろしく!
誕生日おめでとう!
次回:『読書で離婚を考えた。』円城塔+田辺青蛙
12月29日まで

死なない程度に、手を繋いで

『まじめに生きるって損ですか?』雨宮まみ

年がバレるのだが、小学生の頃、「プロフィール帳」なるものが流行っていた。わたしはそんなこじゃれた物は持っていなくて、それはクラスのそんなに仲良くない子から「年賀状出すから書いて~」と言われて書かせていただくシロモノだった(たぶん年賀状は来ていない)。
一応プロフィール帳を知らない人に説明すると、バインダーにシートがたくさん挟まっていて、それはパンダとかウサギとかそういうキュートでポップなイラストが描かれた可愛らしいシートなのだが、名前、住所、生年月日から、月々の小遣いの額、親友、好きな人に至るまで、その人のありとあらゆる個人情報の記入欄があるのだ。今考えると空恐ろしいほどの土足deプライベート、初めに企画考えたやつスゲーな、今ならマイナンバーまで書かせられそう、という現代のデスノートことプロフィール帳なのだが、わたしには毎回一つだけどうしても埋められない箇所があった。それはどのプロフィール帳にも決まってある「最近の悩みは何か」という設問だった。のんびりというかぼんやりした子供だったので(たぶん今も変わってはいないのだが)、小学四年だか五年だかの自分には悩みがなかったらしい。毎回困った末、「特になし」と書いていた気がする。
ふり返ってみれば羨ましい。大人になった今なんて、悩みまみれなのに。悩みの海に溺れて窒息しそうなのに。ゼラチンを入れて、レモンでもいれて、固めて冷やして、食べちゃいたいくらいなのに。

そんなこんなで今回の課題本である。雨宮まみの『まじめに生きるって損ですか?』。
この本はもともとネットで連載されていて、わたしも読んでいた。

募集した匿名の誰かの、誰にも言えない個人的な愚痴を著者が聞く、というスタイルで構成されているのだけど、著者の姿勢がいい。基本的には、アドバイスをして悩みを解決しようとしたり、バッサリ斬ったり(最近このスタイルの人生相談あんまり見ない)はしない。本当に隣に寄り添って、ただじっと親しい人の愚痴を聞いているような感じ。わかりやすく悩みの本質を整理してくれる優しい言葉たちから、著者の聡明さや人柄の良さを感じる。
この本を読んで、意外とみんな似たようなことで悩んでいるんだなと思った。まったく同じ体験をしたことがあるということではないのだけど(小沢健二似の美しいワガママ元彼はいないし、美人でもないし、武士道も貫いていない。あ、でも誕生日はあまり祝ってもらえないかもしれない 笑)、本書の中の言葉でいうと「ものすごく個人的な言葉なのに(中略)どこか普遍性や現代性があると感じる」(p.005)。

わたしは自分に自信がないタイプなので、周りの人たちはみんなえらく立派に見える。でもそんな人たちも、自分と同じ悩みを持っていて、眠れない夜を過ごしたりもするんだな、となんだか励まされたような気持ちがした。

たとえみんな似たような悩みだろうと、辛いのはAさんでもBさんでも福山雅治でもなく、わたし自身だ、というのが人間の悩みなので、それがなんだと思われるかもしれない。でも自分を悩ますこの苦しみと、似たようなものを抱えて生きている人間がこの世界にいる、というのは結構なやすらぎのように感じられたのだ。お前の苦しみは今にもハゲワシに食べられそうな栄養失調のアフリカの子供よりマシだ、と言われたら心がしぼむが、もしその苦しみは誰かと共有できると言われたら、わたしには光が見える。本を読むことと同じだなと思った。本だけじゃなく、映画や舞台や漫画も。一人じゃないんだと気づける。孤独じゃないと気づける。うわー、人と愚痴り合いたい。友達欲しい!(笑)

 

あともう一つ、本書の中で言明されている「正しい」ことについてもなるほどなぁと思った。

「今の社会って(中略)善悪や正論が幅を利かせすぎていると思うんです。もちろん、善悪や正論が絶対に重視されなければいけない場はあります。でも、人間の心って善悪や、正しいことと正しくないことの間にあるものなんじゃないかと思うんです」(p.201)

雨宮まみ~~~~~~!!!!!!!(まなっちゃん風)
ちょっと最近、個人的に正しくて強い人に疲れていたので、この部分、首がもげるほど共感した。
正しい人は強い。批判されてもへっちゃら。間違ってないから。
それにこういう言い方はよくないけど、正しくあることって楽だし。間違ってないから。

でも言われて見れば、現代社会というのは自分を含め、善悪や正論を求め過ぎているのかもしれない。わたしは観ていないのだけど、焼きたてジャパンみたいな名前のバラエティ番組の人気は、まさにそれだと思うし。勧善懲悪だと人って安心するんだなと思った。嫌なやつは酷い目に遭ってほしいし、いい人にはいいことが起こってほしい。現実がそうじゃない分、余計にそう思うのかもしれない。そりゃ結婚宣言をしても偉い人に気に入られていれば干されないなら、十年間真面目に頑張ってきたまゆゆも怒るよってな具合で。
話は替わって、わたしは常々、江戸の町人になって宵越しの金は持たねぇ人生を送りたいと思っている。たぶん落語好きなせいだが、そういえば落語の中に出てくる人たちはみんな、よく言えば大らかだけど、ずるかったり、せこかったり、ちゃらんぽらんだったり、あと基本的に小者だ。そしてとにかく絶望的に間が抜けている。わたしはそんな、正しくて強い人には見えない、弱くて小さな人たちの愉快な世界が好きだ。この著者の本を読んでこういう類の気持ちになるなんて、いい意味で少し意外だった。

 

 

師走ですね。この読書リレーに終わりが近づいていて、少し寂しくなっています。最後のまなっちゃんに読ませる本、ですからね。もう悩みまくりました。
クリスマスの本もいいし、異性愛の話ではあるんですが、わたしの好きな漫画家、鳥飼茜先生の『地獄のガールフレンド』(全二巻)も読んでほしいし、そういえば児童書とか絵本も手をつけてなかったな、とか、本当にいろいろぐるぐる考えたんですが。
次回:『男同士の絆 ‐イギリス文学とホモソーシャルな欲望』イヴ・K・セジウィック
12月19日(火)まで

懐かしい日本の風景

妹尾河童「河童が覗いたニッポン」

身体が猛烈にかゆい! 半月前に結膜炎になって、コンタクトレンズを禁止された週があったんですね。で、ちょっとややこしいおしゃれな金属製のメガネ(ややこしいというのをメガネの形容に使うのははじめてだ)を掛けてたら、耳の後ろがかぶれてしまって。そのメガネもずっと前から使っていたやつで、別にかぶれなんて起きたこともなかったし、むしろ肌トラブルとは無縁の人生を送ってきていて、疲れてるときにややこしいメガネをかけるとこうなるのかなぁ、まあとりあえずプラスチックのに切り替えておくかとか思って放っておいたら、あれよあれよと耳の裏全体、首、顔、腕などにも広がってしまって。はじめは盛り上がっているだけでかゆくなかったのが、だんだん悶絶するかゆさになってしまって。なににも集中できないし、なにより眠れないんです。で、きょう皮膚科で、自家感作性の皮膚炎ねーと言われて、薬を出されました。とにかく、顔がプツプツしているだけでも気分として最悪だし、その範囲が数時間毎に広がっていくし、もうダメ、読書リレーにこんなに関係ないことを書かないとダメなくらいダメなんですけど、でも本は読めましたので。レビューしますね。

妹尾河童の『河童が覗いたニッポン』です。Amazonで中古のを買いました。新潮文庫。わたしは本を読むときにはまず後ろから開くのですが、和田誠が寄稿しており、ビビる。久しぶりに見たなー、和田誠の絵。そして本文を開く。ちなみにわたしは妹尾河童のものを見るのが初めてです。すごいね! 小学生のときによく緻密な迷路を書いていた男の子がいたけど、あれに似てる! そして字体が非常にかわいい! たしかにこれは図鑑がわりに読める!
ただ、この絵、じっくり見ることはできないです。細かいものが苦手なんですよね。間違い探しの絵本とかあったじゃないですか、細かいやつ。あれも小さい頃から苦手で、持っていません。ただ嫌いではないので、休み休み見るみたいな感じです。緻密ですごい。皇居の絵とか、すごかった。
文章に関しては、昔の日本ってこういう感じだったよね~!としみじみ思う感じで。皇居のところと、刑務所のところが特に面白かったんだけど、こういう言論って今発したらもはやリベラル扱いなんじゃないかなって思いました。悪者は死ぬまで働かせろみたいな、ほんとに新自由主義者が言いそうじゃないですか?(テキトー) そうそう、人権って口に出しても攻撃されない社会が過去にあったのだよね~と思いながら読みました。刑務所なんか、ほんとに、昔のルポって感じで、初めて読むのに懐かしい感じがしたな~(ここで、もしかして再読かもしれない?と一瞬思うが、おそらく初めてです)。

次の本ですけど、もうかゆくて、ただただ現在がつらくて、もう無理なんですよ。すべてを無に帰したい。それが不可能であれば、やさしい何かに包まれたい。でも支配してくるやさしさじゃなく、自立を求めてくるやさしさがほしい。
そういうとき支えてくれる文章を書く人が、……………いました!日本は惜しい人を亡くしましたよね!まじで!

じゃ、12月9日(日)までに、よろしく!

次回:雨宮まみ『まじめに生きるって損ですか?』

12月9日(日)まで

アマゾンのミニマリストと捨てられないパジャマ

部屋に物が多い。今視界に入るだけでパジャマが三つある。秋用のやや薄手のパジャマと冬用もパジャマと、さっきまで着ていた真冬用のもこもこパジャマだ。
ベッドの上にもやたらと物がある。ぬいぐるみの猫、クッション、枕、ぬいぐるみの猫、外したままのアイマスク、抱き枕っぽいぬいぐるみ。頭と体はひとつずつなのでどう考えてもそんなにいらない。
そもそも、わたしは部屋をきれいなまま維持しておくということがかなり苦手だ。理由はわかっている。使った物をすぐにもとに戻せないからだ。足の踏み場がなくなり、床の絨毯の色を忘れ、部屋が汚いことを夢に見てからが本番だ。やっと重い腰を上げ、なんとか一気に片づける。そして三日後にはまた同じ状態に戻る。だったらそもそも部屋に置く物の数を減らせばいいのだが、部屋は物で溢れかえっている。捨てても、またいつのまにか増えている。どうして?
話は逸れるが、昔、某通信学習の本のお悩み相談コーナーに、同じようなお悩みが書いてあったのを覚えている(正確にはわたしは悩んではいないのだが)。部屋を片づけられないのですがどうすればいいですか、という相談に対し、回答者は、部屋が全部ゴミ箱と思えばいいんじゃないですかというあんまりな答えをしていた。あんまりだが名案だ。その辺にゴミを放置しても、部屋全体がゴミ箱なのでなんら問題はない。
でもどうしよう。そうしたら、わたしまでゴミじゃないか。

 

完全に途中から本題を思い出すことすら放棄していたが、読書感想文である。別にわたしの三分で考えたぞんざいなおもしろ小話を披露する場ではなかった。
さて。今回の課題図書は『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』。おもしろフィールドワークの本だ(最低の紹介の仕方だ)。
今まで書いてきたことはすべてなかったことにして真面目に本の内容を書くと、ピダハン族というアマゾンの奥地に住む少数民族のもとへキリスト教を伝道しに行った元伝道師による、ピダハンの文化と言語、そして三十年以上にもわたる彼のフィールドワークの日々の紹介がつづられている。
ピダハン族の使う言語は、他に類を見ない、かなり珍しい言語らしい。まずありがとうやおやすみという意味の単語がない。左右や数、色を表す言葉もない。そして、どの言語にも見られる「再帰」という形式もない。例えば「掃除ができない女が感想を書く」という文がある。これが「再帰」だ(と思う。本に書かれている言語学のところはわりとちんぷんかんぷんなので、ふわふわした感じで読み飛ばしてほしい)。この文を解体すると、「掃除ができない人物」がいて、それは「~~という女」で、そしてそれらがさらに「女が感想を書く」という文の中にある。このような入れ子構造が「再帰」なのだが、これはどんな言語にも備わっていると考えられてきた。だがピダハン語にはこの「再帰」は見られず、きわめて単純な文が独立して存在するだけだ。これは言語学の定説を否定するもので、これが本の副題でもある「『言語本能』を超える文化と世界観」というわけだ。
さらに彼らの文化には創世神話もなければ、神さまもいない。これらのないないづくしには共通の事柄が関係している。それは、彼らは自分が直接体験したものしか信じないということだ。彼らの世界観の基本は「今、ここ、自分」だ。ピダハン族の人々は未来の心配をしないから、村には精神疾患も存在しないのだという。

つまり、言ってみれば、ピダハンは究極のミニマリストだ。彼らは「余計な」荷物を持たない。だから彼らは幸福でいつも笑っている。
異文化にどっぷりと浸かった研究者が、わたしたちの住む文化との差異や意外な共通点を提示し、それを読む読者の方は自分を取り巻く文化に疑問を持つ。それがこうしたフィールドワーク研究の本の面白さだと思っている。

日本の文化は多種多様な色の名前を持っていることが、たまにとても誇らしいことのように言われている。色の名前がたくさんあるのは風土や自然、そして着物という文化が関連しているし、個人的には微妙な違いを楽しむ心意気は大好きなのだが、別に色なんかなくても幸せに暮らしている人たちが地球の裏側にいるのである。もちろん色の多さと幸せ不幸せは直接関係しないが、文化には本来優劣なんてなく、そこにあるのは差異だけなのだと本書を読んで強く思った。

「今、ここ、自分」しかないピダハン族は幸福だ。心配事がないなんて羨ましい。でもそれは病気や自然の脅威のせいで常に死と隣り合わせの、死を特別なものとは見なさない過酷な環境や、全体でも四百人を割る小さな社会など、彼らを取り巻く世界が大きく関わっている。だがら、はい、今からピダハン族のように生活をして幸せを感じましょうとはいかない。いくらミニマリストがいいと言われようが、簡単になれたら苦労しない。今のところ、三つあるどのパジャマもわたしは手放せない。小汚いぬいぐるみもだ。でもだからこそ彼らの生活に憧れ、羨ましく思うのだと思う。

 

さて、次の本ですが、今回に続いて異文化がテーマの本にしようと思い、いくつか候補をピックアップしてみました。話題になる本って意外とこの手のテーマが多いのでしょうか。最近だと『バッタを倒しにアフリカへ』とか『ルワンダ中央銀行総裁日記』とか『英国一家、日本を食べる』とか、案外早く候補が見つかりました。

その中からさてどれにしようかと考えていたのですが、そのときふと、この読書リレーの目的を思い出しました。相互理解です。どれも面白い本ですが、目的を果たすにふさわしいかというと微妙です。熟考の末、まっちは最適解を求めて、Amazonへ飛んだ――

家の本棚に同じシリーズの本がたくさんあったので、よく絵本替わりに読んでいた本です。こういう細かいところまで描かれた絵が大好きで、そういう図鑑もよく眺めていたなと思い出しました。絶版の本も売ってるAmazon、ありがとう!オネシャス!!

次回:『河童が覗いたニッポン』妹尾河童

11月29日まで

 

 

深い、血と暴力と、緑

深緑野分『オーブランの少女』

なんて綺麗なペンネームなんでしょうか。というか、ペンネームですよね? 中身もこれを裏切らない美しさでした。そして血、暴力だった。
前回オススメした町田康『告白』は、読書リレーをはじめることになったときからずーっと候補に入れていたやつで、でも物理的に痛いのが苦手だと言っていたので避けてたんだけど、この前の記事を書いたときにちょうど氷結9%を飲んでいたので、もうめちゃくちゃになって、すすめてしまったんですよ。酒のせいにするのはよくないね……。酒を飲んだときに出るのは、その人のほんとうの姿だね。

さて。今回教えてもらったのは深緑野分『オーブランの少女』。これも血と暴力だったんだけど、やっぱり、まっちがすすめてくれる血と暴力の話はもっと美しかったですね。すごくすごーく、面白かったです! ベーコンエッグが食べたくなったけどベーコンを切らしていて、コンビーフエッグにすることにして、食べてから一気に読みました。
この話、タイトルでぐぐると、「百合」とサジェストされる。百合……です! たしかに、百合ですね。百合の定義が実際あんまりよくわかっていないのですが、確かに、帰納法的にいって、百合でしたね。からだに障害を抱えていたり、疾患を持っていたりする少女たちのサナトリウムで起きた事件の話。そして、その事実がわかったとき……。という話ですね。

この人のペンネームから見てとれるように、濃い木々のにおいが今にもしてきそうな話です。耽美的と感想に書いている人たちもいたけど、むしろ清々しい、さっぱりした文章の書き方じゃないかな。非常に読みやすい書き方でした。たしかにシチュエーションはお耽美な雰囲気もあるんだけど、この話の魅力は、もっとカラッとしていて、描き切った少女たちの生活と、血と、暴力だと思います。そして、ここでいう血というのは、暴力によって流血するものと、からだに流れている、そして親に流れている、よって共同体意識のようなものを呼び起こすものと、ふたつを指していますよ。短い話だから、最後までたどり着いたとき、「え!」と言ってまた冒頭を読んじゃったよね。刺激的な話で、本当に面白かったです。全く普段やらない読書でした。あとやっぱり、短編の読後感は、長編とはまた違って、いいよね! 終わった後に疲れた〜ってならない感じが。それは町田康の『告白』みたいな長編を想像して比較しているからでもあるのですが……。

そういえば、前回、まっちから「読書遍歴とか、読書に関するエトセトラ的なこと」をリクエストされていたので、それにお答えしながら、いかに普段『オーブランの少女』的な読書はしないか、証明しようと思います。(”ない”ことの証明は難しい)

この機会に振り返ってみてよくわかったのですが、ざっくりいうと、わたしの読書は、「『わかる』ようになるための読書」でした。だから、まっちのことを「わかる」ようになるためだったらいくらでも読めるんだけど、そうじゃないと読めないみたいな本がわんさかあるわけですね。わたしの知的好奇心が働かないと読書をしないというのと、一つのテーマについては深く勉強できるけど、なかなか視野が広がらないという欠点を持っていて、そういう意味でこの読書リレーにとても助けられているんですよね。

あと、割と大学時代によく本を読んだので、自分の中に影響を与えているのもその時期の本なのかなぁと漠然と思っていたんだけど、違いました。おそらく読書する習慣ができたのは、幼少期だと思う。あと中学生のときに毎日本屋で待ち合わせをしてくれた友達がいたのも(その子のことが好きで、彼女が読んでいる本を読ませてもらったりしてましたねぇ〜、青春……)大きかったようですね。

で、やっぱり、よく覚えている本は何かを説明している本だったり、それを読んでわたしが何かをわかったと思った本だったりするわけで、「わかりたい」がわたしの読書欲?の原動力になっているようです。だから小説あんまり読まないんですよね、まどろっこしくて、「本質を先に書いて!よろしく!」みたいになってしまい、最後まで読めない。あと、有名作も、心底興味が湧かなければ読み通せない。だから、まっちが前回書いていたような、「時間を返せ!」って思ったこと、ないです。あ、これ今読めないやパス、が続いていく。逆に言えば、「面白かった〜!」って思うような本ばかり読んでます。読んだと言い切れる本は少ないんだけど、目を通し(て、途中で捨て)ている本は多いっていう感じですかね。あ、すすめた本は全て、冒頭から最後まで、読んでますよ(ルール通り)!

次の本のことを考えます。
今まで読んだ本のことを考えたら、大好きな本の中にはけっこう血と暴力だねとしか言えないものが多いことに気づきました。村上龍とか、小川洋子の初期とかね。そういう話がもともと好きなんですよね。
とはいえ、『告白』もそういう話だったし、もっと軽く読めるほうが楽しいですね。わたしがエンタメ系に触れず純文学を読みまくっているということも分かったし。
……………でも、ごめん!!!!!! 「わかる」本の話をしていたら、これしか思いつかないや!!!!!
長いけど、図書館で借りてね!!!!!

次回:11月19日(日)まで ダニエル・L・エヴェレット『ピダハン』

上の文章を書くのに使った思考の残滓ですけど、名残惜しいので、置いておきますね。
書いた本は全て最初から最後までページを繰っていますよ!

  • おそらく生育上初めて夢中になった本は図鑑。
    • 家に恐竜図鑑と星座図鑑と子ども用の百科事典があって、そればっかりずっと読んでいた。
    • シンデレラとか白雪姫とかも読んだ記憶があるんだけど、それは妹が産まれてからだと思う。
    • 好きでよく読み聞かせしてもらっていたのは、『ダヤンのミステリークッキング』
  • 小学校
    • ワープロを使ってレシピ本を模写するのが好きな子ども。
    • ほどなくして家にwindows95がくる。ホームページ作りにはまり、HTMLを勉強する。HTMLに関するサイトや本に没頭する。
    • やったこともないゲームの攻略本を読むのにハマる。
      • 一番よく覚えているのは、MOTHER1・2の攻略本で、攻略本を読みこんだあとに実際プレイしようとしてみたんだけど、すぐ飽きてやめてしまった。
    • 漫画も並行して読んでいて、りぼんと、手塚治虫。
      • ブラックジャック、火の鳥、ブッダ、アドルフに告ぐ、陽だまりの樹。
    • 友達が赤毛のアンとかあしながおじさんとかハリーポッターとかダレン・シャンとかキノの旅とか読んでいるが、無視。
      • あまりにもそのあたりは読めない。今も期日と理由がないと難しい。
      • ハリー・ポッターは二次創作の小説を読みたくて読んだ。ルーピン先生のことが知りたくて。
    • 国語で一番好きなのは説明文。
  • 中学校
    • 友達と毎日本屋に遊びにいっている時期。
    • 小説が読めるようになる。
      • 国語便覧に載っている人たちを知っているのが嬉しかった。
      • ネタバレを先回りして知っているのが嬉しいみたいな感覚?
        • 一番最初に読んだのは、当時先鋭の新人、乙一。
        • 横溝正史(好きな子が読んでいた)
        • 京極夏彦(分厚くて興味があった)
        • 涼宮ハルヒの憂鬱とか西尾維新の物語シリーズとか空の境界とか、ラノベ(同級生にすすめられるままに)
        • 嶽本野ばら(エロガキ)
        • 村上龍とか村上春樹も
          • 村上龍『限りなく透明に近いブルー』『コインロッカー・ベイビーズ』を母にすすめられて読み、次に自発的に手に取った『海の向こうで戦争が始まる』で、スキ〜となる。
          • 血と暴力ね。
          • 村上春樹は、あまりに一気に読めてびっくりした以外、よく覚えてない。
        • 江國香織も、読んだけど覚えてない。
        • 『人間失格』『金閣寺』『小僧の神様』『山椒魚』『ロビンソン漂流記』『野菊の墓』『海と毒薬』とかも読んだ。文学文学〜
        • 『枕草子』とか『方丈記』とか(古典が読めるようになると読める日本語が増える!)
          • もう絶版っぽいから課題本としてはオススメできないんだけど、酒井順子の『枕草子REMIX』という本がとてつもなく面白いです。
        • 殺人事件のルポを読みまくってた時期があった
          • 中二病がひどかったのもあるんだけど、まあ平たくいうと思春期はつらかった。
          • 血と暴力ね。
    • でも、一番衝撃を受けたのは、養老孟司の『解剖学教室へようこそ』
      • この本の中にある、あるモノ・コトを示す単語が生まれるのは、物を切断するからなんだよ!という考えは、今も有効活用している。
  • 高校
    • もう完全に今の感じ。
    • この頃、『乳と卵』が芥川賞をとる。
      • 一度これを読んで、発狂します。
      • 女性性に耐えられなかった。
    • 小川洋子『妊娠カレンダー』
      • これは発狂しなかった。女性性をぶっ殺す、ぶっ壊すみたいな内容だからいけた。
      • このときに村田沙耶香を読んでいなくて本当によかった。
    • 大江健三郎
      • 血と暴力ね。
    • 漫画もよく読んだ。
      • 中村明日美子とか、オノ・ナツメにハマる。
        • 血と暴力ね。
    • あとはひたすら、エロ小説。
      • 西田三郎のやつを、めちゃくちゃ、片っぱしから読んだ。私生活が抑圧されすぎていて、もう無理だったときね。
  • 大学
    • 大江健三郎を再読
    • 円城塔!!
      • そのときハマっていた大学の授業と内容がリンクしていて、それで興奮して好きに拍車がかかったというのもある。
      • 小説が意味不明なのに、エッセイが読みやすいところが難解で、わかりたい!という気持ちになる。
      • でも、おそらく氏の書く文章は小説もエッセイも文法が変わるわけではなくて、わたしが単に小説の論理構造を理解できていないだけなんだろうという仮説も既にある。
    • 村上龍を再読
      • やっぱ血と暴力はいいよね。
    • 学術書を読まされて開眼する
    • 思考法みたいな本も読む
  • 現在
    • 新書、
    • 純文学、
      • 今年、ようやく村田沙耶香に出会ってしまった。とんでもない人だった。
      • 町田康が好き。
        • 血と暴力ね。
    • 軽く読めるエッセイとか、ビジネス書に逃げがち。
      • 『LEAN INとか、結構面白かったよ。
      • 『勉強の哲学』もここに入るか。
    • ごくたまにレシピ本。

どツボにハマったらアカン

 

下手なホラーよりこわい本だった。町田康の最高傑作と名高い(「町田康 告白」と検索すると「町田康 告白 最高傑作」という検索ワードが出てくるのだ、マジで)『告白』は、河内音頭にうたわれる「河内十人斬り」という実際にあった事件をモチーフに書かれたパンク小説だ。
「河内十人斬り」。字面だけでこわい。そもそも「河内」という地名がもうこわい。その地域に住んでいる人から見ればいい迷惑だろうが、関東から出たことがないわたしからすると、日常でやり取りされる会話がすでにヤ◯ザ、みたいな酷すぎる偏見がある。しかも十人斬り。十人を、斬るのだ。夕飯のお茄子を切るのもイルカの肌を包丁で乱切りにしているみたいでいたたまれない気持ちになるこっちとしては、卒倒だ。卒倒である。わけもなく二回言った。
といっても実はこの情報は本を読み終えてから知ったので、読んでいる最中はあまりこわくなかった。だから結末は本当にびっくりした。びっくりしすぎて口を開けて読んでいたので、喉がからっからになった。
こわいのではなく嫌だ嫌だと思いながら読み進めていた。なんか嫌だ。言葉にできないけど嫌だ。だって主人公の熊太郎は、明治の初めの貧乏百姓の子供なのだけど、思弁的で内向的な性格で、周囲から完全に変人と思われているのだ。でも純真でいいやつ。でも思弁的。そのせいで到底百姓にはなれない。なれないばかりか村人たちのコミュニティからも完全に浮いている。まともに生きてない。ほれ、もう嫌じゃんか。そしたら案の定、超最悪な嫌なことが起こった。人殺しだ。しかも熊太郎は気づいていないが、相手は人じゃない。異界の存在だ。もしくは神か、運命か、熊太郎の内側にいるもっと大きな何かか、それは今あまり重要じゃないからいい、本当は殺してないけど、熊太郎は開けちゃならない扉を開いた。パンドラの箱みたいなものだ。一度開けてしまったら、もう開ける前には戻れない。一生、箱の中身に囚われて生きていくことになる。でも読んでいると、途中でそんなこと忘れて「熊やんホンマにしょうもないやっちゃ」なんてゲラゲラ笑ったりする。でもいつも頭の隅っこに箱があって、蓋をパカパカしながらこっちを見ている。パカパカ、口を開けて、待っている。

言わんこっちゃない、人間どつぼにハマったら駄目なんだよ。小難しいことなんか考えないで、パッパラパッパラ生きていくのが一番。本当にそう思う。でもできない。できない人間もいる。熊太郎のような人は、どこにでもいる。
石川良子さんという学者さんが書かれた『ひきこもりの〈ゴール〉 ~「就労」でもなく「対人関係」でもなく』という学術本がある。「ひきこもり」について、当事者に丁寧に聞き取り調査がなされた、とってもいい本だ。その本の中で、ひきこもりの当事者たちは「何のために生きるのか?」とか「どう生きるべきか?」とか「自分の存在にはたして価値はあるのか?」といった「実存的疑問」にとらわれているせいで外に出られない、みたいなことが書いてある。
熊太郎の思いと言葉が繋がらないというのも、それに似ている。現代だったら、繊細過ぎる、ナイーブすぎる、世の中の良識のある人たちはきっとそういう風に表現するだろう熊やん、他人事とは思えない。わかるよ。わたしにも心当たりがあるよ。だから彼の頭を覆う薄暗い雲が、少しでも晴れればいいなと思っていた。でも駄目だった。辛い。しんどい読後感だった。でもそれを書ききってしまう傑作だった。嗚呼、文学。

 

前回、文体が移っているという指摘を受けたのですが、実は、いやこれマジなんですけど、わざとやってたのです。「え、わざとやってたにしてはクォリティ低くない!?」みたいな声が聞こえる。やだ、恥ずかしい(笑)

理由は特になくて、後で読み返したときに面白いかなーくらいの気持ちでやっておりました。間に別の本を読んじゃって、勢いがつかなくてやってないときもあるんだけど。いやでも、前回バレて助かった。聞いたこともないエセ河内弁の感想を書かずにすんだ。
あとなんでそんなに本を読むんですかって質問にも答えてみます。
別にそんなに読書家ってわけではないんです、本当に。ただ、小さい頃から家に本がたくさんあったのと、親がゲームを買わない教育方針だったので、本を読むというのが中学生まで娯楽の中心だったんです。田舎に住んでいたので、車に乗れない子供は自由にどこか行くというのも難しく、代わりに本を読んで空想の世界にね、飛んでいっていたわけです。ちょっとメルヘンに言ってみました。
だからすごく偏ってます。賢くなりたいと思って本を読んだことがないから、新書とかあんまり読まないし。だからこの読書リレーは本当に楽しいわけです。
それから「どうしたら面白い本にあたるか」ということですが、身もふたもないですけど、数読むしかないと思っています。こういうことを言うと、一生懸命お仕事をされている人たちに本当に失礼なんですけど、作家だって出版社だってビジネスだから、食っていくためには明らかに駄作みたいな本も出版されるじゃないですか(笑) 世の中そんなにごろごろ天才はいないわけだし。ただ、わたし、この話を昔十個くらい年上の、読書が大好きな人と話していて、その人に言われたことがあるんです。「世の中に面白くない本なんてないよ」って。その人は乱読もいいところで、海外文学からライトノベルまでとにかく何でも読む人で(そのわりに一番好きな作家は三浦しをんらしくて、まあちょっと炭酸の抜けたサイダーみたいな人だった)、その人曰く、「今面白いと思わなくても、十年経ったら面白いと思う本になるかもしれない。だから、全部面白い」というような話をしていて、まあたまに聞く話かもしれませんが、ああ、いいなと思ったんです。そのスタンス、いただき、と。まあでもまだそこの境地にはいけていなくて、時間を返せみたいな本、ありますよね(笑)
わたし、人が読んで楽しいのかわからない個人的なことを、この読書リレーで書きまくっているので、今度はまなっちゃんの読書遍歴とか、読書に関するエトセトラ的なことも聞いてみたいです(とんでもねぇバトンの渡し方だな)。

 

次の本、どうしようかな。本当は方言で書かれた別の小説にしようと思っていたんですが、思いのほかぐったりしてしまったので、エンタメ系に舵を切りたいと思います。
短編集なのですが、二つ特に好きな話を迷って、表題作の方にします。今回はまた好きな作家です。きっとまなっちゃんも気にいってくれるんじゃないかな。
次回:深緑野分『オーブランの少女』
十一月九日まで

言葉遊びが好き

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

話題の作者の本を読みました。そして増えていくハヤカワepi…… 自分が普段いかに偏った読書しかしていないかよく分かって、読書リレーは本当にいいね!

解説で柴田元幸も書いているんだけど、これ、あらすじ書くのためらう。端正な語り口というのも本当にそうで、静謐できれいな文体で、静かに静かに不穏な感じとだけ書いておくか…… 前半は本当に、謎が謎のまま不穏に書かれていて、みんな爆発して死んじゃって後のページは全部白紙になっちゃうんじゃないかと思った。(こう妄想していて思うのだが、この本の終わり方は下手に爆発して死ぬより悲しいと思う)
普段あけすけにものを言いがちなわたしだけど、ここは少し我慢してあらすじは書かないでおきます。ただ、言えるのは、おすすめされなければ絶対に読まなかった本だけど、読んでとてもよかったってこと! 久しぶりに小説としてのレベル(?)が高いものと戦ったなぁという思いになりました。ありがとう。
ていうか、まっちってめっちゃ小説読んでるね。ふたりの読書量って比較してみたことないけど、まっちのほうが圧倒的に小説を読んでいるね。もっと教えてほしいし、それよりも知りたいのは、なんでそんなに本を読むんですか? そして、どうやったら面白い小説にあたるんですか? わたしはあまり読まないので、単純に興味があります。空想の世界に行っていることに何か関係があるんでしょうか? 教えてほしいです。

そして、ここまでやってきて気づいたのですが、まっちが気に入った本って、レビューに文体が移りますよね? 栗原康と、この前もちょっと移ったと思うんですけど、どうなんでしょう。リズム感がいいのが好きなのかしら?
リズム感というと、このまえ西尾維新の話をしてましたが、わたしは西尾維新読んだことがあるよ!あんまり文字読めないから、ラノベばかり読んでる時期があって(失礼か?)、空の境界とか物語シリーズとか涼宮ハルヒシリーズとかざっと読んだよ。そして西尾維新はぜんぜん嫌いじゃないです。むしろ好き。羽川翼さんが好きです!そして、繋げるのが好きなわたしは、ここから次の課題図書へ無理くり繋げようとしていますよ!

西尾維新みたいな軽妙な語り口といったら、いや、西尾維新にすればいいんだけど、そうじゃなくて。もっとわたしが読んだときにこころを抉られた本にしたいと思ってね。西尾維新みたいな軽妙な語り口でもっと抉ってくるやつ、町田康でしょう。
町田康の『告白』、長いしエグいししつこいですが、とてもいいので、読んでください。有名だし代表作だし、もう読んでるかな? どちらにせよ、とてもいいので、(もう一度でも!)読んでください! わたしが去年読んで最もガーンときた小説です。

次回:10月29日(日)まで 町田康『告白』

当たり前を疑う

 

だらだらと三週間近くひいていた風邪が最近ようやく治りました。体重が三キロ減り、部屋にポカリのペットボトルと栄養ドリンクのビンが溢れ、育てていた豆苗がしおれていました。健康は大事。というわけで何の関連もありませんが、今回の課題本です。

 
東大と京大の生協で一番売れている本らしいですね。友達の東大出身の恋人のノロケ話を三時間半聞かせてもらったばかりなので、個人的にはすごくタイムリー(いつものことながら今回は特にどうでもいいですね)。
この本の中で扱われる勉強というのは、いわゆる高校までの受験のための勉強ではなく、自分の興味関心のある分野について自由に本を読んで調べたり、考えたりする勉強です。
わたしはジェンダーに関心があり、さすがに学生時代ほどは読めていないですが、今でも関連する本を読んだり、人の話を聞いたり、考えたりすることは好きです。だから勉強とは後者のイメージなのですが、勉強とは前者のようなことだと思っている人、意外と遭遇しますよね。そういう人は後者を研究という意味で捉えているのかもしれません。でも研究をするのは研究者かアマチュア研究者だけですけど、勉強なら論文を学会に発表する必要もないし、誰でもできます。じゃあそのやり方とは? というのが本書の内容です。

 

この本を読んで、大学時代所属していたゼミのことを思い出しました。
本書では、勉強することで周囲に同調できなくなり、集団から浮くことを「ノリが悪くなる」と表現しているのですが、わたしの入っていたゼミ(以下Aゼミとします)はそういう意味では学科の中で一番ノリが悪いゼミでした(笑)

「希望人数が三人以下の場合は開講されない」という決まりがあったらしいのですが、その決まりはAゼミのせいで早々に撤廃され、「院生には人気あるのにね」と隣の部屋の教授に同情され、今でも定期的に行われる教授を囲む会ではどうしたら希望者が増えるのかという議題が毎回真剣に(?)話し合われています。(このゼミをわざわざ選んで入ってきた時点でその答えは絶対にわからないよ!)とわたしはいつも心の中で思っているのですが、議論することに意義はあるのです。……たぶん。
そんなそもそもノリノリになれない存在のAゼミ、もちろん当然のように所属する学生もノリが悪い。これは賛否両論あるかと思いますが、同期のゼミ生の中ではわたしが一番普通で、ノリがよかったと思います。でもここでいうノリの良さは勉強熱心でないということなので、ようは落ちこぼれだったわけですが、そんなわたしですがゼミのことはとても好きでした。ゼミは当時のわたしにとって、学内でも居心地のいい居場所のひとつだった――
というようなことを、この本を読んで思い出したわけです。
わたしは社交的とは反対を行く学生生活を送っていたので実際のところはわからないのですが、やっぱり学科の中でAゼミは特に「勉強」が好きなタイプが集まっていたと思います。わたしの卒業したような中堅私立大学だとそういうタイプはやはりマイノリティで、Aゼミはいわばそのマイノリティたちの行き着く先、マイノリティホイホイだったわけです。

そしてこの本もたぶん同じで、勉強することで周囲から浮いている人に「それが勉強なんだ」と説いてくれている、仲間は、先輩たちは、ここにいる、この道を通ったと教えてくれている本書は、きっと大学生だった自分が読んだら、ためになるよりも先に嬉しいと思うような、そんな本だと思いました。(そしてもっと真剣に勉強に取り組んでいたかもしれない。か も し れ な い !

 

大学一年の四月に、ある教授が「社会学とは世間の当たり前を疑う学問である」とおっしゃっていたのを今でも覚えているのですが、学問の多くは今ある既存の概念を本当にそうなのだろうかと疑問に思うことから始まるんだな、と思いました。自分が当たり前だと思っていたことを疑えば、自分の世界の枠は一旦破壊されますが、破壊からしか未知の発見は生まれないということでしょうか。

そういえばわたしの周りの頭がいい人たちの傾向として、皮肉屋が多いというのがあるのですが、はたして相関があるのか、それとも単に個人個人でひねくれているのが多いだけなのか……は考えない方向で行こうと思います。何事も破壊すればいいというわけではないのである。

 

 

さて、次の本ですが、第一章の言語の話が面白かったので言葉遊びという意味で西尾維新とかいいんじゃない(内容はともかく、文字自体を視覚的に面白がるのが好きな作家というイメージがあるので。あとまなっちゃん読んだこと無さそう!)とか考えていたんですが……

やっぱり、世間の流れに乗っとくのもこれ一興、ということで。映画も色が美しくて好きです。両脇の女優が強すぎるだけでアンタが下手なわけじゃないぜアメイジングスパイダーマン。

次回:カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

十月十九日(木)まで。

 

2015年のインターネット

カレー沢薫『ブスの本懐』
 
まっちが円城塔を気持ち悪がりながら読んでいてニヤニヤしました。なぜなら絶対そうだろうと思ったから!! 個人的には『烏有此譚』の方が好きなんだけど、そっちじゃなくてよかったかもしれない、『烏有此譚』の方が気持ち悪く、『道化師の蝶』の方がまだわかるので……。あと、円城塔はわからない話を書くので有名だと思うのですが、エッセイはびっっっっっっくりするくらい読みやすく、わかりやすく、推察なさっていたとおりにお料理にも凝ってらっしゃって面白いのでオススメです。読んでね〜!!
 
さて、カレー沢薫先生の『ブスの本懐』を読みました。cakesを購読していたことがあったので、カレー沢薫先生は知ってる。でも一体なんだろう?なんか思っていたのと違う……?と思いながら読み進めていったのですが、猫海沢めろん先生と混同していました。なんかこの本が書店に並んでるの少し前に見たな、また今度少子化がらみの小説?かなんか出したんじゃなかったっけ?多筆な人なんだなぁ……と思っていたんですけど、繰り返しますが、それは猫海沢めろん先生(ちなみに少子化の本は今年の7月に出たらしい『キッズファイヤー・ドットコム』)ですね。
 
感想としては、本人もあとがきに書いていてウケたけども、あまりにもブスという言葉がたくさん使われすぎていて、気が滅入った。ただエッジの効いている言葉遣いは面白かった。これはですね、わたしは円城塔にもこういう面白さを感じることがあります(また円城塔の話か?)。しゃもじの位置エネルギーの話とかするんですよ(また円城塔の話です)。翻ってカレー沢先生の話をしますが、ananのセックス特集のところが一番面白かったかな、ブスという言葉が比較的少なくて。そして他のコラムだとヤケクソで書いていてもはや虚無なんだけど、セックス特集だと割とまともなことを言っていたのもウケた。全体的には2015〜2016年くらいのインターネットという感じがした(そりゃそう)。
 
次にまっちに読んでもらいたい本の話をします。
まっちが純文学を克服しかけているところで気づいたんですけど、わたしが読む小説って、ほぼ純文学ですね。太宰三島などなど。大江健三郎に精神を殴られてきた奴はだいたい友達、村上春樹と村上龍を両方読んで個人的には村上龍の勝ち!、小川洋子最高、町田康大好き、俺たちの黒田夏子、いま読みたいのは田中慎弥。ていうか早稲田文学増刊女性号買ったんですけど、これヤベェよ〜、 裏表紙をもう一枚めくったページをみて!! それと川上未映子の前文だけで買う価値あるよね〜! あっもちろん俺たちの黒田夏子も最高だったのですが! あぁ〜!!
 
……話がめちゃくちゃずれたけど、そのまま続けます。
上記のように、わたしは学生のときに純文学ばっかり読みまくっていたくせに、国語が嫌いでした。こんなので点数取れてもなんの足しにもならねぇ、みたいなふざけた姿勢だったんだよね。
でも、現代文のややこしいのは好きだった。今でも覚えているのが、ジャック・ラカンの「人は他者の欲望を欲望する」という概念のことで、高校生のときにこれに邂逅して、めちゃくちゃ興奮したんですね。で、これって今思えば、別に問題がややこしいとかじゃなくて、アクロバティックな論理とか、言葉の打ち出し方に興奮しているわけですね。それは今のカレー沢薫先生の本を読んで言葉遣いを面白がる自分と変わらない。
これって、少し前までは学問をする人の間でしか共有されなかった言葉遣いなんだろうけど、今だとインターネットの言葉遣いって感じが、なんとなくですけど、わたしはします。それでいうと、斎藤環とか、信田さよ子とか、國分功一郎とか、千葉雅也とか、めっちゃそこらへんのインターネットに近いような気もする。『勉強の哲学』は最近読んだそういうものでもけっこう面白くて、特にわたしはアイロニーの記述のところがグサッときました。まっちにはわたしがここで言った言論?の雰囲気って伝わるんでしょうか? ぜひ読んでみてください。
 
ちなみに、まっちが論理と感情でいうと感情側だ!!と言っていたのを見て、いま性格診断をやってみたのですが、16類型のやつだとINTJ型でしたね。内向型・直感型・論理型・計画型・慎重だそうです。ふ〜ん…… あ、あと、人間は感情があるからこそ人間なのであって、感情を論理のコーティングで正当化したがる人がいるというだけだと思います。ですので、論理と感情が対立するというのは、やっぱおかしいなとわたしも思います。何の弁明をしているんだ?
 
次回:千葉雅也『勉強の哲学』 10月9日まで