どツボにハマったらアカン

 

下手なホラーよりこわい本だった。町田康の最高傑作と名高い(「町田康 告白」と検索すると「町田康 告白 最高傑作」という検索ワードが出てくるのだ、マジで)『告白』は、河内音頭にうたわれる「河内十人斬り」という実際にあった事件をモチーフに書かれたパンク小説だ。
「河内十人斬り」。字面だけでこわい。そもそも「河内」という地名がもうこわい。その地域に住んでいる人から見ればいい迷惑だろうが、関東から出たことがないわたしからすると、日常でやり取りされる会話がすでにヤ◯ザ、みたいな酷すぎる偏見がある。しかも十人斬り。十人を、斬るのだ。夕飯のお茄子を切るのもイルカの肌を包丁で乱切りにしているみたいでいたたまれない気持ちになるこっちとしては、卒倒だ。卒倒である。わけもなく二回言った。
といっても実はこの情報は本を読み終えてから知ったので、読んでいる最中はあまりこわくなかった。だから結末は本当にびっくりした。びっくりしすぎて口を開けて読んでいたので、喉がからっからになった。
こわいのではなく嫌だ嫌だと思いながら読み進めていた。なんか嫌だ。言葉にできないけど嫌だ。だって主人公の熊太郎は、明治の初めの貧乏百姓の子供なのだけど、思弁的で内向的な性格で、周囲から完全に変人と思われているのだ。でも純真でいいやつ。でも思弁的。そのせいで到底百姓にはなれない。なれないばかりか村人たちのコミュニティからも完全に浮いている。まともに生きてない。ほれ、もう嫌じゃんか。そしたら案の定、超最悪な嫌なことが起こった。人殺しだ。しかも熊太郎は気づいていないが、相手は人じゃない。異界の存在だ。もしくは神か、運命か、熊太郎の内側にいるもっと大きな何かか、それは今あまり重要じゃないからいい、本当は殺してないけど、熊太郎は開けちゃならない扉を開いた。パンドラの箱みたいなものだ。一度開けてしまったら、もう開ける前には戻れない。一生、箱の中身に囚われて生きていくことになる。でも読んでいると、途中でそんなこと忘れて「熊やんホンマにしょうもないやっちゃ」なんてゲラゲラ笑ったりする。でもいつも頭の隅っこに箱があって、蓋をパカパカしながらこっちを見ている。パカパカ、口を開けて、待っている。

言わんこっちゃない、人間どつぼにハマったら駄目なんだよ。小難しいことなんか考えないで、パッパラパッパラ生きていくのが一番。本当にそう思う。でもできない。できない人間もいる。熊太郎のような人は、どこにでもいる。
石川良子さんという学者さんが書かれた『ひきこもりの〈ゴール〉 ~「就労」でもなく「対人関係」でもなく』という学術本がある。「ひきこもり」について、当事者に丁寧に聞き取り調査がなされた、とってもいい本だ。その本の中で、ひきこもりの当事者たちは「何のために生きるのか?」とか「どう生きるべきか?」とか「自分の存在にはたして価値はあるのか?」といった「実存的疑問」にとらわれているせいで外に出られない、みたいなことが書いてある。
熊太郎の思いと言葉が繋がらないというのも、それに似ている。現代だったら、繊細過ぎる、ナイーブすぎる、世の中の良識のある人たちはきっとそういう風に表現するだろう熊やん、他人事とは思えない。わかるよ。わたしにも心当たりがあるよ。だから彼の頭を覆う薄暗い雲が、少しでも晴れればいいなと思っていた。でも駄目だった。辛い。しんどい読後感だった。でもそれを書ききってしまう傑作だった。嗚呼、文学。

 

前回、文体が移っているという指摘を受けたのですが、実は、いやこれマジなんですけど、わざとやってたのです。「え、わざとやってたにしてはクォリティ低くない!?」みたいな声が聞こえる。やだ、恥ずかしい(笑)

理由は特になくて、後で読み返したときに面白いかなーくらいの気持ちでやっておりました。間に別の本を読んじゃって、勢いがつかなくてやってないときもあるんだけど。いやでも、前回バレて助かった。聞いたこともないエセ河内弁の感想を書かずにすんだ。
あとなんでそんなに本を読むんですかって質問にも答えてみます。
別にそんなに読書家ってわけではないんです、本当に。ただ、小さい頃から家に本がたくさんあったのと、親がゲームを買わない教育方針だったので、本を読むというのが中学生まで娯楽の中心だったんです。田舎に住んでいたので、車に乗れない子供は自由にどこか行くというのも難しく、代わりに本を読んで空想の世界にね、飛んでいっていたわけです。ちょっとメルヘンに言ってみました。
だからすごく偏ってます。賢くなりたいと思って本を読んだことがないから、新書とかあんまり読まないし。だからこの読書リレーは本当に楽しいわけです。
それから「どうしたら面白い本にあたるか」ということですが、身もふたもないですけど、数読むしかないと思っています。こういうことを言うと、一生懸命お仕事をされている人たちに本当に失礼なんですけど、作家だって出版社だってビジネスだから、食っていくためには明らかに駄作みたいな本も出版されるじゃないですか(笑) 世の中そんなにごろごろ天才はいないわけだし。ただ、わたし、この話を昔十個くらい年上の、読書が大好きな人と話していて、その人に言われたことがあるんです。「世の中に面白くない本なんてないよ」って。その人は乱読もいいところで、海外文学からライトノベルまでとにかく何でも読む人で(そのわりに一番好きな作家は三浦しをんらしくて、まあちょっと炭酸の抜けたサイダーみたいな人だった)、その人曰く、「今面白いと思わなくても、十年経ったら面白いと思う本になるかもしれない。だから、全部面白い」というような話をしていて、まあたまに聞く話かもしれませんが、ああ、いいなと思ったんです。そのスタンス、いただき、と。まあでもまだそこの境地にはいけていなくて、時間を返せみたいな本、ありますよね(笑)
わたし、人が読んで楽しいのかわからない個人的なことを、この読書リレーで書きまくっているので、今度はまなっちゃんの読書遍歴とか、読書に関するエトセトラ的なことも聞いてみたいです(とんでもねぇバトンの渡し方だな)。

 

次の本、どうしようかな。本当は方言で書かれた別の小説にしようと思っていたんですが、思いのほかぐったりしてしまったので、エンタメ系に舵を切りたいと思います。
短編集なのですが、二つ特に好きな話を迷って、表題作の方にします。今回はまた好きな作家です。きっとまなっちゃんも気にいってくれるんじゃないかな。
次回:深緑野分『オーブランの少女』
十一月九日まで

言葉遊びが好き

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

話題の作者の本を読みました。そして増えていくハヤカワepi…… 自分が普段いかに偏った読書しかしていないかよく分かって、読書リレーは本当にいいね!

解説で柴田元幸も書いているんだけど、これ、あらすじ書くのためらう。端正な語り口というのも本当にそうで、静謐できれいな文体で、静かに静かに不穏な感じとだけ書いておくか…… 前半は本当に、謎が謎のまま不穏に書かれていて、みんな爆発して死んじゃって後のページは全部白紙になっちゃうんじゃないかと思った。(こう妄想していて思うのだが、この本の終わり方は下手に爆発して死ぬより悲しいと思う)
普段あけすけにものを言いがちなわたしだけど、ここは少し我慢してあらすじは書かないでおきます。ただ、言えるのは、おすすめされなければ絶対に読まなかった本だけど、読んでとてもよかったってこと! 久しぶりに小説としてのレベル(?)が高いものと戦ったなぁという思いになりました。ありがとう。
ていうか、まっちってめっちゃ小説読んでるね。ふたりの読書量って比較してみたことないけど、まっちのほうが圧倒的に小説を読んでいるね。もっと教えてほしいし、それよりも知りたいのは、なんでそんなに本を読むんですか? そして、どうやったら面白い小説にあたるんですか? わたしはあまり読まないので、単純に興味があります。空想の世界に行っていることに何か関係があるんでしょうか? 教えてほしいです。

そして、ここまでやってきて気づいたのですが、まっちが気に入った本って、レビューに文体が移りますよね? 栗原康と、この前もちょっと移ったと思うんですけど、どうなんでしょう。リズム感がいいのが好きなのかしら?
リズム感というと、このまえ西尾維新の話をしてましたが、わたしは西尾維新読んだことがあるよ!あんまり文字読めないから、ラノベばかり読んでる時期があって(失礼か?)、空の境界とか物語シリーズとか涼宮ハルヒシリーズとかざっと読んだよ。そして西尾維新はぜんぜん嫌いじゃないです。むしろ好き。羽川翼さんが好きです!そして、繋げるのが好きなわたしは、ここから次の課題図書へ無理くり繋げようとしていますよ!

西尾維新みたいな軽妙な語り口といったら、いや、西尾維新にすればいいんだけど、そうじゃなくて。もっとわたしが読んだときにこころを抉られた本にしたいと思ってね。西尾維新みたいな軽妙な語り口でもっと抉ってくるやつ、町田康でしょう。
町田康の『告白』、長いしエグいししつこいですが、とてもいいので、読んでください。有名だし代表作だし、もう読んでるかな? どちらにせよ、とてもいいので、(もう一度でも!)読んでください! わたしが去年読んで最もガーンときた小説です。

次回:10月29日(日)まで 町田康『告白』

当たり前を疑う

 

だらだらと三週間近くひいていた風邪が最近ようやく治りました。体重が三キロ減り、部屋にポカリのペットボトルと栄養ドリンクのビンが溢れ、育てていた豆苗がしおれていました。健康は大事。というわけで何の関連もありませんが、今回の課題本です。

 
東大と京大の生協で一番売れている本らしいですね。友達の東大出身の恋人のノロケ話を三時間半聞かせてもらったばかりなので、個人的にはすごくタイムリー(いつものことながら今回は特にどうでもいいですね)。
この本の中で扱われる勉強というのは、いわゆる高校までの受験のための勉強ではなく、自分の興味関心のある分野について自由に本を読んで調べたり、考えたりする勉強です。
わたしはジェンダーに関心があり、さすがに学生時代ほどは読めていないですが、今でも関連する本を読んだり、人の話を聞いたり、考えたりすることは好きです。だから勉強とは後者のイメージなのですが、勉強とは前者のようなことだと思っている人、意外と遭遇しますよね。そういう人は後者を研究という意味で捉えているのかもしれません。でも研究をするのは研究者かアマチュア研究者だけですけど、勉強なら論文を学会に発表する必要もないし、誰でもできます。じゃあそのやり方とは? というのが本書の内容です。

 

この本を読んで、大学時代所属していたゼミのことを思い出しました。
本書では、勉強することで周囲に同調できなくなり、集団から浮くことを「ノリが悪くなる」と表現しているのですが、わたしの入っていたゼミ(以下Aゼミとします)はそういう意味では学科の中で一番ノリが悪いゼミでした(笑)

「希望人数が三人以下の場合は開講されない」という決まりがあったらしいのですが、その決まりはAゼミのせいで早々に撤廃され、「院生には人気あるのにね」と隣の部屋の教授に同情され、今でも定期的に行われる教授を囲む会ではどうしたら希望者が増えるのかという議題が毎回真剣に(?)話し合われています。(このゼミをわざわざ選んで入ってきた時点でその答えは絶対にわからないよ!)とわたしはいつも心の中で思っているのですが、議論することに意義はあるのです。……たぶん。
そんなそもそもノリノリになれない存在のAゼミ、もちろん当然のように所属する学生もノリが悪い。これは賛否両論あるかと思いますが、同期のゼミ生の中ではわたしが一番普通で、ノリがよかったと思います。でもここでいうノリの良さは勉強熱心でないということなので、ようは落ちこぼれだったわけですが、そんなわたしですがゼミのことはとても好きでした。ゼミは当時のわたしにとって、学内でも居心地のいい居場所のひとつだった――
というようなことを、この本を読んで思い出したわけです。
わたしは社交的とは反対を行く学生生活を送っていたので実際のところはわからないのですが、やっぱり学科の中でAゼミは特に「勉強」が好きなタイプが集まっていたと思います。わたしの卒業したような中堅私立大学だとそういうタイプはやはりマイノリティで、Aゼミはいわばそのマイノリティたちの行き着く先、マイノリティホイホイだったわけです。

そしてこの本もたぶん同じで、勉強することで周囲から浮いている人に「それが勉強なんだ」と説いてくれている、仲間は、先輩たちは、ここにいる、この道を通ったと教えてくれている本書は、きっと大学生だった自分が読んだら、ためになるよりも先に嬉しいと思うような、そんな本だと思いました。(そしてもっと真剣に勉強に取り組んでいたかもしれない。か も し れ な い !

 

大学一年の四月に、ある教授が「社会学とは世間の当たり前を疑う学問である」とおっしゃっていたのを今でも覚えているのですが、学問の多くは今ある既存の概念を本当にそうなのだろうかと疑問に思うことから始まるんだな、と思いました。自分が当たり前だと思っていたことを疑えば、自分の世界の枠は一旦破壊されますが、破壊からしか未知の発見は生まれないということでしょうか。

そういえばわたしの周りの頭がいい人たちの傾向として、皮肉屋が多いというのがあるのですが、はたして相関があるのか、それとも単に個人個人でひねくれているのが多いだけなのか……は考えない方向で行こうと思います。何事も破壊すればいいというわけではないのである。

 

 

さて、次の本ですが、第一章の言語の話が面白かったので言葉遊びという意味で西尾維新とかいいんじゃない(内容はともかく、文字自体を視覚的に面白がるのが好きな作家というイメージがあるので。あとまなっちゃん読んだこと無さそう!)とか考えていたんですが……

やっぱり、世間の流れに乗っとくのもこれ一興、ということで。映画も色が美しくて好きです。両脇の女優が強すぎるだけでアンタが下手なわけじゃないぜアメイジングスパイダーマン。

次回:カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

十月十九日(木)まで。